2025年1月、埼玉県八潮市で起きた道路陥没事故のニュースを、皆さんは覚えているでしょうか。走行中のトラックが突如現れた巨大な穴に飲み込まれ、運転手の方が犠牲になるという、あまりにも衝撃的な事故でした。テレビの画面越しに広がる光景に、私は元現場監督として、背筋が凍る思いがしました。これは決して他人事ではない、日本の未来を左右する深刻な問題の氷山の一角なのだと。
はじめまして。私は田中健二と申します。大手建設会社で20年以上、現場監督として全国の道路や橋の建設、そして維持管理の最前線に立ってきました。現在はその経験を活かし、建設業界のコンサルタントとして、インフラが抱える問題の解決に取り組んでいます。
長年現場を見てきた人間として、断言します。日本の道路は、今、静かに、しかし確実に悲鳴を上げています。高度経済成長期に造られたインフラが一斉に寿命を迎え、八潮市のような事故は、いつ、どこで起きてもおかしくない状況なのです。
この記事では、普段あまり語られることのない「インフラ老朽化」の真実を、現場の視点から包み隠さずお伝えします。なぜこのような危険な状態になってしまったのか。そして、私たちの安全な暮らしを守るために、今何が必要なのか。この記事を読み終えたとき、皆さんの足元にある道路が、少し違って見えてくるはずです。
目次
今、日本のインフラで何が起きているのか
「インフラの老朽化」と聞いても、多くの方はピンとこないかもしれません。しかし、その現実は、私たちの想像以上に深刻です。2025年に起きた衝撃的な事故は、その危険性を浮き彫りにしました。
2025年の衝撃的な事故が示した現実
2025年1月28日、埼玉県八潮市の県道で、道路が幅約30メートル、深さ約10メートルにわたって陥没しました。この事故では、走行中のトラックが穴に転落し、運転手の方が亡くなるという痛ましい結果となりました。原因は、道路の直下に埋設されてから40年以上が経過した下水道管が、下水から発生する硫化水素によって腐食し、破損したことでした。
この事故は、下水道管の破損が原因で起きた陥没事故としては過去最大級のものであり、2012年に9名の方が犠牲になった中央自動車道の笹子トンネル天井板崩落事故と並び、インフラ老朽化が招いた重大事故として社会に大きな衝撃を与えました。八潮市の事故現場では、発生から1年が経過した2026年1月時点でも復旧工事が続き、周辺住民は悪臭や交通規制といった影響に苦しんでいます。
さらに、この年の8月には埼玉県で下水道管の点検作業中の作業員4名がマンホール内で死亡する事故、11月には沖縄県で水道管が破裂し、大規模な断水が発生するなど、全国で老朽化が原因とみられる事故が相次いでいます。
数字で見るインフラ老朽化の実態
これらの事故は、決して偶然起きたわけではありません。国土交通省が公表しているデータは、日本のインフラが危機的な状況にあることを明確に示しています。
建設後50年以上経過する社会資本の割合(国土交通省 2023年3月時点)
| 施設種別 | 2023年3月 | 2030年3月(予測) | 2040年3月(予測) |
|---|---|---|---|
| 道路橋(約73万橋) | 約37% | 約54% | 約75% |
| トンネル(約1万2千本) | 約25% | 約35% | 約52% |
| 河川管理施設 | 約22% | 約42% | 約65% |
| 港湾施設 | 約27% | 約44% | 約68% |
| 下水道管渠 | 約7% | 約16% | 約34% |
この表を見て、皆さんはどう感じるでしょうか。現在ですら、日本の道路橋の約4割が建設から50年以上経過しています。そして、今からわずか15年後の2040年には、その割合が75%、つまり4分の3にまで達するのです。トンネルに至っても、半数以上が建設後50年を超えることになります。
なぜ、これほど急激に老朽化が進むのか。その答えは、日本の歴史にあります。現在、私たちが当たり前のように利用している道路や橋、トンネルの多くは、1960年代の高度経済成長期に集中的に建設されました。いわば、日本のインフラは「同級生」だらけなのです。そして今、その同級生たちが、一斉に定年、つまり寿命を迎えようとしています。これが、日本のインフラが抱える構造的な問題の正体です。
現場監督が目撃した老朽化の「危険信号」
データだけでは伝わらない、現場の生々しい現実があります。長年、現場の第一線に立ってきた私自身の目で見てきた、インフラが発する「危険信号」についてお話しさせてください。
道路橋に現れる劣化のサイン
皆さんが普段何気なく渡っている橋も、よく見ると悲鳴を上げていることがあります。私が現場で特に注意深く見ていたのは、以下のようなサインです。
- コンクリートのひび割れ・剥離: 髪の毛ほどの細いひび割れ(ヘアークラック)も、放置すれば雨水が浸入し、内部の鉄筋を錆びさせる原因になります。やがてコンクリートが剥がれ落ち、大きな事故につながることもあります。私が担当したある橋では、剥離したコンクリート片が下の道路を走る車を直撃寸前だった、というヒヤリとする出来事もありました。
- 鉄筋の露出と錆び: コンクリートが剥がれ、中の鉄筋がむき出しになっている状態は、まさに末期症状です。鉄筋は橋の骨格であり、それが錆びて膨張すると、さらにコンクリートを内側から破壊してしまいます。茶色い錆汁が橋の側面や裏側に染み出しているのを見つけたら、それは橋の内部で重篤な事態が進行している証拠です。
こうした劣化は、専門家でなくとも注意深く観察すれば気づける場合があります。毎日通る橋の表情が、昨日と少し違う。そんな小さな気づきが、大事故を防ぐ第一歩になるのです。
トンネルや下水道管の見えない危険
橋のように目に見える構造物以上に厄介なのが、トンネルや下水道管といった「見えないインフラ」の老朽化です。特に下水道管は、八潮市の事故でも明らかになったように、内部で静かに劣化が進行します。
下水に含まれる有機物が微生物によって分解される過程で、硫化水素というガスが発生します。このガスが管の上部に溜まり、水分と反応して硫酸に変化することで、コンクリートを溶かしてしまうのです。外からは全く見えない場所で、じわじわと管の強度が失われていく。これが、見えないインフラの最も恐ろしい点です。
トンネルも同様で、壁の裏側で地下水がコンクリートを劣化させていたり、岩盤が緩んでいたりすることがあります。定期的な点検で打音検査(ハンマーで叩いて音の違いを聞き分ける)などを行いますが、膨大な延長距離をすべて完璧に把握するのは、熟練の技術者をもってしても至難の業です。
「まだ大丈夫」が命取りになる理由
現場で最も怖いのが、「まだ大丈夫だろう」という油断です。インフラの劣化は、ある日突然、致命的なレベルに達することがあります。それまで何の問題もなかったように見えても、内部では限界寸前まで劣化が進行しているケースが少なくありません。
従来のメンテナンスは、ひび割れが大きくなったり、機能に支障が出たりしてから対応する「事後保全」が中心でした。しかし、このやり方では、八潮市のような突然の崩壊事故を防ぐことはできません。事故が起きてからでは遅いのです。だからこそ、壊れる前に手を打つ「予防保全」への転換が急務なのですが、その重要性がなかなか理解されにくいのが現状です。
なぜ老朽化対策が進まないのか?3つの深刻な課題
これほど危険な状態であるにもかかわらず、なぜ日本のインフラ老朽化対策は思うように進まないのでしょうか。現場の経験から、私はその背景に3つの根深い課題があると考えています。
課題1:一斉に訪れる老朽化のピーク
先にも述べましたが、日本のインフラの多くは高度経済成長期に集中して建設されました。これは、いわば「インフラのベビーブーム」です。そして今、そのブーム期に生まれたインフラが一斉に50年以上の高齢期に突入し、修繕や更新が必要な時期を迎えています。毎年、計画的に少しずつ更新していくという理想的なサイクルが、この「一斉老朽化」によって非常に困難になっているのです。
課題2:圧倒的に足りない予算と人材
インフラの維持管理には、莫大な費用がかかります。しかし、地方自治体の財政は年々厳しさを増しており、インフラ整備に回せる予算は限られています。下の表は、全国の市町村における土木費(道路や橋などの整備・維持管理に使われる費用)の推移を示したものです。
市町村における土木費の推移
| 年度 | 土木費(兆円) |
|---|---|
| 1993年度 | 11.5 |
| 2011年度 | 6.0 |
| 近年 | 約6.5(横ばい) |
出典:地方財政統計年報を基に国土交通省が作成した資料より
ピークだった1993年度から比べると、近年の土木費はほぼ半減しています。一方で、老朽化するインフラは増え続けており、まさに「入るを量りて出ずるを制す」ことができない状況に陥っています。
さらに深刻なのが、人材不足です。インフラの維持管理を担う市町村の土木部門の職員数は、2005年度から2023年度の間に約14%も減少しました。実際に現場で工事を行う建設業の従事者も高齢化が進み、若手の担い手は不足しています。予算があっても、それを実行する「人」がいない。これもまた、老朽化対策を阻む大きな壁となっているのです。
課題3:「見えない」インフラへの関心の低さ
そして、もう一つ無視できないのが、私たち市民の意識の問題です。道路や水道は、安全で当たり前。蛇口をひねれば水が出て、スイッチを押せば電気がつく。その「当たり前」が、目に見えないインフラによって支えられているという事実を、私たちは忘れがちです。
新しい道路や立派な建物が完成すれば注目されますが、地道なインフラの維持管理は、なかなか評価されません。そのため、どうしても対策が後回しにされがちです。しかし、八潮市の事故が示したように、その「当たり前」が崩壊するのは一瞬です。事故が起きてからでは、取り返しがつかないのです。
国と自治体が進める老朽化対策の最前線
もちろん、国や自治体も手をこまねいているわけではありません。危機的な状況を打開するため、様々な対策が始まっています。ここでは、その最前線の取り組みを3つのポイントでご紹介します。
「事後保全」から「予防保全」への大転換
これまで主流だった、壊れてから直す「事後保全」では、突発的な大事故を防げず、結果的にコストも高くつくことが明らかになっています。そこで今、国を挙げて進められているのが、壊れる前に計画的に補修を行う「予防保全」への転換です。
| 事後保全 | 予防保全 | |
|---|---|---|
| 考え方 | 壊れたら直す(対症療法) | 壊れる前に直す(予防医療) |
| コスト | 高い(大規模な工事が必要) | 安い(軽微な補修で済む) |
| 安全性 | 低い(突然の事故リスク) | 高い(計画的な管理が可能) |
国土交通省の試算では、すべてのインフラを予防保全に切り替えることで、今後30年間のトータルコストを約3割も削減できるとされています。これは、財政が厳しい中でも持続可能なメンテナンスを実現するための、極めて重要な方針転換と言えるでしょう。
20兆円規模の国土強靱化計画が始動
この予防保全への転換を強力に後押しするのが、2025年6月に政府が閣議決定した「国土強靱化計画」です。これは、2026年度からの5年間で20兆円強という巨大な予算を投じ、老朽化したインフラの更新や災害対策を集中的に進める国家プロジェクトです。
この計画の大きな柱の一つが、八潮市の事故を受けて緊急対策が求められている下水道管の更新です。計画では、特にリスクが高いとされる、設置から30年以上が経過した大口径の下水道管約5,000kmを対象に、2030年度までに必要な箇所の整備を進めることが盛り込まれました。これは、まさに待ったなしの課題に対する、国の強い意志の表れです。
最新技術が変えるインフラメンテナンス
限られた予算と人材で膨大なインフラを維持管理していくためには、従来の手法だけでは限界があります。そこで今、大きな期待が寄せられているのが、AIやドローンといった最新技術を活用した「インフラDX」です。
例えば、以下のような技術がすでに現場で活躍し始めています。
- ドローンによる点検: 人が近づけない高所や危険な場所も、ドローンを使えば安全かつ効率的に点検できます。
- AIによる画像診断: 撮影したコンクリートのひび割れ画像をAIが解析し、劣化の進行度を自動で診断します。
- 人工衛星による地盤変動監視: 広範囲の地盤のわずかな変動を宇宙から監視し、陥没などの予兆を捉えます。
こうした新技術の開発・導入には、専門的なノウハウを持つ民間企業の力が不可欠です。例えば、社会インフラ設備のエンジニアリングを専門とする株式会社T.D.Sのような企業は、電力会社で培った高度な診断技術や設備運用のノウハウを活かし、インフラの点検・診断から補修、コンサルティングまでをワンストップで提供しています。官民が連携し、こうした企業の専門技術を最大限に活用していくことが、今後のインフラメンテナンスの生産性を大きく左右する鍵となるでしょう。
私たち一人ひとりができること
インフラの老朽化は、国や自治体だけの問題ではありません。私たちの安全な暮らしを守るために、一人ひとりができることもあります。
日常生活で気づける異変のサイン
まずは、身の回りのインフラに関心を持つことから始めましょう。通勤や散歩の途中、いつもと違う「異変」に気づくことがあるかもしれません。
- 道路に不自然なへこみやひび割れがある
- 橋を渡るときに、以前はなかった揺れや音を感じる
- マンホールの蓋がガタガタしている
もし、このような異変に気づいたら、決して放置しないでください。スマートフォンのアプリや電話で、道路の異常を自治体などに通報できる「道路緊急ダイヤル(#9910)」という制度があります。あなたの一本の連絡が、大きな事故を未然に防ぐことにつながるかもしれません。
インフラを長持ちさせる使い方
インフラを大切に使う意識も重要です。例えば、過積載のトラックは、道路や橋に設計想定以上のダメージを与え、寿命を縮める大きな原因となります。ルールを守った適切な利用を社会全体で徹底していくことも、未来の負担を減らすために不可欠です。
まとめ
ここまで、インフラ老朽化の深刻な実態と、その対策についてお話ししてきました。高度経済成長期に造られたインフラが一斉に寿命を迎え、私たちの安全は今、静かに脅かされています。この問題は、もはや一刻の猶予もありません。
しかし、希望もあります。国や自治体は、従来の「事後保全」から「予防保全」へと大きく舵を切り、20兆円規模の国土強靱化計画をスタートさせました。さらに、AIやドローンといった最新技術が、メンテナンスの現場を大きく変えようとしています。
この巨大な課題を乗り越えるためには、国や自治体、そして専門企業だけの力では不十分です。私たち市民一人ひとりが、足元のインフラに関心を持ち、その「声」に耳を傾けること。そして、異変に気づいたら行動を起こすこと。こうした社会全体の意識の変化こそが、未来の安全な暮らしを守るための最も確実な礎となります。
元現場監督として、私はこれからもこの問題の重要性を訴え続けていきたいと思います。この記事が、皆さんのインフラへの関心を深める一助となれば、これほど嬉しいことはありません。



